15世紀の中頃、現在のルーマニア南部にあったワラキア公国で、周辺のハンガリーなどの大国の向こうをはって、当時ヨーロッパ・オリエント地域で最強国であったオスマン帝国に対抗し、その果断さと残虐さで「串刺し公」と呼ばれ、吸血鬼ドラキュラのモデルとなった「ヴラド三世」の即位から没落までを描いた東ヨーロッパ戦国物語のシリーズ「ヴラド・ドラクラ」の第3弾。
前巻までで、君公を軽視し、国政を壟断し側近を暗殺した地主貴族を新たに組織した近衛兵を使って捕縛し、「串刺し」という見せしめ刑で恐れさせて屈服させた、今シリーズの主人公のワラキア公・ヴラド3世だったのですが、今回は最後に残った反対貴族の首魁・アルプとの最終対決となるとともに、東ローマ帝国を滅ぼし、着々とヨーロッパへ侵攻してくるオスマン・トルコとの戦いの火蓋が切られます。
あらすじと注目ポイント
第3巻の構成は
#12 黎明
#13 流亡
#14 先触
#15 覚悟
#16 政婚
#17 断罪
番外編 見聞
となっていて、前巻の最後で君公反対派の貴族たちを串刺し刑にして、アルプに兵をあげさせたヴラド三世だったのですが、アルプ側は国の1/3を支配する領土といままで溜め込んだ富をバックに集めた傭兵と、粛清で主を失った家臣団とあわせて5千の兵力を動員していて、ヴラド三世が擁する軍より大軍です。
情勢的には圧倒的に不利なのですが、ヴラド三世は3日以内に内乱を終わらせると豪語します。
それは都への一本道を攻め上がってくる貴族の連合軍をおとりの騎兵隊を使って深入りさせ、弓隊で待ち構えて進軍を止め、背後から包囲して敵将を捕縛します。ヴラドの作戦の主目的は、この「敵将の捕獲」ということにあったようで、捕虜にある届け物を担がせてアルプ+貴族連合の本陣へ帰還させることで彼らを降伏へと導くのですが、彼らが担いで帰陣したものは、先だっての大貴族粛清の時に生み出されたもので・・という展開です。
中盤では、オスマン・トルコの若き王「メフメト2世」によるコンスタンティノープル陥落のシーンから始まります。周囲を城壁で硬め、正面に位置する金角湾の入口を鉄鎖で封鎖し、鉄壁の守備を誇るコンスタンティノープルの正面に海に一夜にしてオスマン艦隊を出現させた奇想天外の作戦を行った国王で、オスマン帝国の版図を最大限に広げ「制服者」よ呼ばれた王様ですね。
コンスタンティノープルを陥落させた後、彼が次のターゲットに定めたのが、ヴラド三世の治めるワリキア公国です。メフメト2世は貢納金を6千ダカットから一挙に1万ダカット(現在の通貨で約6億円)に値上げし、それを拒否することを名目にワラキアを勢力下におき、そこからハンガリーへ侵攻するつもりですね。
中盤のここでは、オスマン・トルコ人質時代のヴラド3世とメフメト2世の若き頃の交流が描かれるとともに、メフメト2世の本質を知っているだけに、ワラキア公国を守るために下した苦渋の決断が描かれます。
後半部分では、新都構築の資金と国内商人からの借金でなんとか1年分の貢納金を工面したヴラド3世は1年後の反攻のために、隣国の大国「ハンガリー」と手を結ぶ方策を模索します。
ワリキア公国を属国並にし対オスマンの橋頭堡としたいハンガリーはヴラド3世と手を結ぶことを了承するのですが、その条件はハンガリー王の従姉妹「イロナ・シラージ」との結婚です。まあ、大抵のケースでは、この場合、この女性はとんでもなく性格か容姿のどちらかが最悪といったことが多いのですは、イロナは美貌な上に、結婚式で無礼な振る舞いをした母国の臣下を追い返したり、宮廷の召使たちに気軽に声をかけたりと申し分のない妃の姿を見せています。
しかし、彼女の本当の姿は、ハンガリーの密偵役で、ワラキアの城内の様子や君公の動向をつぶさに本国ハンガリーへ知らせています。そして、ヴラド3世が国の南部へ視察に出かけると聞いたイロナはそれをハンガリー王・マーチャーシュに情報提供し、ハンガリーはヴラド3世の政敵「ダン・ダネスティ」をワラキアへ帰国させ、君公位奪還の兵をあげさせようとするのですが・・という展開です。イロナが裏切ったと彼女を罵倒するダネスティなのですが、実は、すべてがヴラド3世の計略で・・という展開です。
少しネタバレすると、反乱が失敗した後のダン・ダネスティに対する処断もかなりエグいものなので詳細は原書のほうで確認してくださいね。
レビュアーの一言
若い頃、オスマン・トルコの宮廷で知り合ったメフメト2世とヴラド3世は互いのそれぞれの非凡な才能を見抜き、メフメト2世に至っては、彼がトルコのスルタンとなった暁には治世の片腕にしようとすら考えていた、という設定になっています。
たしかに、政治的意図はあれど、ヴラド3世の即位を当初後押ししたのはハンガリーではなく、オスマン・トルコで、ヴラド3世さえその気になりさえすれば、トルコの尖兵としてハンガリー、ポーランドへ侵攻してそこを半自領にすることも可能であったと思えるのですが、オスマン・トルコ側につかなかったのは、宗教的理由やヨーロッパ人としての自負だったのかもしれません。
ただ、オスマン・トルコからヨーロッパを守った防波堤の役割を果たしながら、政敵に対する冷酷な仕打ちと残虐な刑によって、今に至るまで彼を評価する声は少ないように感じます。
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