鹿児島の出身で日本警察の基礎を築いた「川路利良」を中心人物にすえて、ペリー艦隊の来訪から安政の大獄を経て明治へ続く幕末の時代を、「ハコヅメ」の作者・泰三子が、倒幕の片翼を担った「薩摩藩」や「彦根藩」の視点から描いた幕末歴史コミック・シリーズ「だんドーン」の第7弾。
あらすじと注目ポイント
第7巻の構成は
第五十一話 ビフォアーナイトメア
第五十二話 敵は寺田屋になし
第五十三話 蠢く謀
第五十四話 永年の呪い
第五十五話 寺田屋事件
第五十六話 薩摩を怒らす起爆剤
第五十七話 薩州、禁忌を犯す
第五十八話 狙うべき次の首
第五十九話 怒りを積む積む!
となっていて、冒頭は寺田屋に集結し、攘夷の過激志士たちと合流し挙兵しよとする有馬新七たち薩摩藩士約50名の説得に失敗した、と大久保一蔵が小松帯刀をはじめとする藩の重役に報告するところから始まります。
多賀者の頭「タカ」の謀略で、寺田屋の動きを止めることができなければ、長州過激派も挙兵し、その結果、薩摩藩と長州藩とが戦をすることにもつながります。さらには、薩摩や長州の過激派の面通しのため、自白剤を飲ませた「太郎」を多賀者たちが連れてくるのは明白で、太郎の命も風前の灯ということですね。
この事態を避けるため、有村三兄弟の長男・有村俊斎をはじめとする10名が再び、有馬新七たちの説得のため寺田屋に乗り込み、島津久光の「寺田屋にいる薩摩藩士全員を自分の元へ連れて参れ」という言葉を伝えます。それに対し、有馬は使いとしてやってきた奈良原たちが「鎮撫使」ではなく「捨て身の斬込み泰」として送り込まれてきたと告げるのですが、久光の上意を受けてきた薩摩藩士はそんあ発言にゆらぐことなく・・という展開です。
これと並行して、多賀者の「タカ」たちは、寺田屋組がすでに挙兵したとの偽の情報を長州藩にもたらして長州藩を薩摩藩にぶつけようとするのですが、その偽の使者は、中村半次郎と同行したことが運の尽きとなるのですが、詳細は原書のほうで。
(ちなみに「太郎」は川路が「タカ」の手から救出しています)
さらに並行して、薩摩藩士同士が斬りあった「寺田屋事件」のほうは、薩摩藩士のリーダーである有馬新七が鎮撫使を斬ってしまった同士の橋口を助けるため、自らを討ち取らせることによって、他の薩摩藩士の投降を引き出すこととなります。この結果、寺田屋に集結した薩摩藩士約50名のうち、死亡したのは有馬新七ほか6名、瀕死の重傷者が森山新五左衛門ほか2名という結果になります。
そして、彼らの投降後すぐに、薩摩藩は長州藩の久坂玄瑞に使いを出し、長州藩の挙兵中止の念押しをするのですが、この使者として派遣された堀次郎と久坂玄瑞のうまが合わず、さらに久坂玄瑞が「挙兵計画なんて知らない。寺田屋の浪士の鎮撫が大変なら長州藩から加勢をだそうか」という去勢を張ったことで、薩摩藩内は「長州憎し」に染まることとなります。(このことを長州藩の久坂玄瑞たちは気付いておらず、これが蛤御門の変などでの薩摩藩の対応に結びついていくようです。ついでにいうと、堀を対応した久坂玄瑞が、弁がたち、秀麗な顔立ちであったことも原因の一つであったろうと管理人は推測します)
この「寺田屋事件」は薩摩藩士同士の斬り合いと有馬新七の死亡では騒動がおさまらず、薩摩藩に投降してきた田中河内介ほか他藩の過激志士と「錦の御旗」を始末することでようやく決着することになります。
後半では、寺田屋事件の終結後、有村俊斎改め海江田信義に対し、長州の久坂玄瑞が、土佐藩の吉田東洋を暗殺した土佐勤王党のメンバーや長州藩の家老・長州雅楽の暗殺を頼んだり、とか相変わらずKYな要望を持ち込んできます。この様子をみると久坂は薩摩藩の嫌われ者になっていることを全くっ自覚していないようです。さらに、寺田屋事件の責を負って森山新蔵が島流しになる船上で自害したことから田中新兵衛が幕末きっての「人斬り」へと変貌していきます。
そして、対立が深刻化していく状況を改善するため、長州藩の周布政之助と来島又兵衛が薩摩藩の大久保一蔵と堀次郎とが宴を設けます。最初は、大人同士のつきあいで和やかに進行するのですが、途中から本音を隠し味にした皮肉の応酬が始まり、ついには一触即発の状態に・・という展開です。ここで注目すべきは眼鏡を外しただけで場の空気を変えた来島又兵衛で、「ちるらん」を始めとする新撰組マンガでは時勢をわきまえない猪突猛進の侍として描かれることが多いのですが、実像はそうではなかったようです。詳しくは原書中の「長州の名将 来島又兵衛」を読んでくださいね。
レビュアーのひとこと
長州藩と薩摩藩の対立は、幕府と朝廷が協力することによって国難を乗り切ろうとする公武合体派の薩摩藩と外国人を追い払って倒幕し、天皇中心の体制を築こうとした長州藩の政治路線の対立が原因であったといわれるのですが、本シリーズでいわれている「うまが合わなかった」のが一番の原因というのも頷けるところです
議論好きの松下村塾出身者の多い長州のリーダーたちに対し、薩摩藩は「議を言うな」と直情径行の強いリーダーが多いので、まあ素人の管理人から見ても意見が合うはずないよな、と思うところであります。
薩摩と長州の対立は、第一次長州征伐や下関戦争の後、坂本龍馬の周旋によって和解し、薩長同盟を結ぶことになるのですが、明治維新後の対立をみると究極的な解決は果たされたいないような気がします。
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